CULTURE | 2020/04/21

大混乱を招いた「一斉休校」から1カ月半、現役中高教員はどう対応しているか|矢野利裕


矢野利裕
批評家/ライター/DJ
1983年、東京都生まれ。批評家、DJ。著書に『SMAPは終わらない』(垣内出...

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矢野利裕

批評家/ライター/DJ

1983年、東京都生まれ。批評家、DJ。著書に『SMAPは終わらない』(垣内出版)『ジャニーズと日本』(講談社)、共著に大谷能生・速水健朗・矢野利裕『ジャニ研!』(原書房)、宇佐美毅・千田洋幸編『村上春樹と二十一世紀年代』(おうふう)など。
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あまりにも唐突だった、一斉休校「要請」

新型コロナウイルスの影響がさまざまなところで出ています。このひと月半くらいのあいだ、教育現場も慌ただしく動いています。各校・各自治体によって、状況は異なるかもしれませんが、現役教員の私が見知っている範囲での報告という意味合いも込めて、書きたいと思います。

2月27日(木)の夜、安倍首相から、3月2日(月)以降の「全国一斉休校の要請」が出されました。これにより、土曜休日となっている学校では翌28日だけで年度末の仕事をすべて済まさなければならないことになりました。成績評価は? 卒業式は? 教育現場はあの瞬間から今日まで、めまぐるしく対応に追われていたかと思います。

一方、そのような現場の声も反映されてか、翌28日(金)には、文科省の方から「各校・各自治体の裁量で判断していい」という発表もありました。しかし、首相から「全国一斉休校」の方向性が示されている中、それに反する方針を「各校・各自治体」責任で打ち出すのは、あまりにもリスクと負担が大きい。結果、だいたいの学校において3月2日からの休校という横並びの判断がなされたように思います。

今から振り返ると、あのタイミングでの「全国一斉休校」は妥当だったのではないか、という評価も出ています。たしかに、その後の世界的な感染状況を見ると、早期でのクラスター化を防ぐ対応だったとも言えます。しかし、リアルタイムで感じていたのは、政府からの圧倒的な説明不足。なぜ/このタイミングで/全国一斉休校の/要請なのか。明確な根拠を欠いたまま、学年末の2週間を閉じることに、各校たいへんな苦慮があっただろうことは想像にかたくありません。あの時点では、全国で感染状況にかなり差があるように報道されていたので、「休校」に対してさまざまな判断の余地があったでしょう。

「要請」と「命令」のはざまで

だとすれば、現場レベルで起こうることは、まずは保護者からの問い合わせですが、この「休校」の根拠を「政府要請を受けて」という以外に説明できないのは厳しいところです。もちろん、非常時というのは、通常の手続きが取れないからこその「非常時」であって、あの時点で政府から厳密な説明ができなかった可能性もあるでしょう。しかし、「全国一斉休校の要請」に限らず、政府の説明責任はいまだ果たされたとは言えないし、その手前の基本的なコミュニケーションすら図られていません。対応の妥当性とは別に、こういう態度は、端的に不誠実でしょう。

このような話になると、今度は「要請」という呼びかけの問題性も浮上します。あの「全校一斉休校」が必要だったのならば、論理的にはむしろ、「命令」のかたちが取られるべきでしょう。「要請」はむしろ、最終的な判断を各校・各自治体の自己責任に押しつけるようにしか機能しません。つまり、「権力の行使はするが責任は取らない」という政府のダブルスタンダード。このダブスタの姿勢が、現在まで議論になっている「自粛/休業要請をするが補償はしない」という不誠実な対応にまでつながっている印象です。

もっとも、市民たる私たちが考えなくてはいけないのは、このとき、「命令」「補償」という国家の強い権力を求めている、ということです。リベラルな立場からすると、ここには葛藤があるでしょう。したがって、現在の政府の対応を批判するのなら、「国家批判をするなら非常時についてどのように社会を維持するのか」「国家権力を求めるならそれはどのように運用すべきか」といったことも併せて考える必要があります。批判(critic)とは、自分の足もとを問う行為でもあります。

既存のセオリーが通用しない環境で何ができるか

ちなみに、人に向かって話すのが好きで、ラジオパーソナリティに憧れて、紆余曲折して、結果的に教員になったような筆者としては、講義形式は望むところではあります。あるいは、音声に特化したラジオ講義形式がいいのか。試行錯誤中です。

現在は、緊急事態宣言が解かれる5月頭の再開を念頭に置いて、すでに学校で発行しているメールアドレス宛に3週間分の課題を出している状態です。他教科ではGoogle Classroomを通じて、簡単な復習問題をテスト形式で問うていたりもします。新しい学習領域に入るというよりは復習メインとなっているという意味では、正直、この1カ月の埋め合わせという意味合いも強いでしょう(もっとも、年度替わりで行事の多い4月は、例年試運転的な位置づけになります)。

このあたりは学校や教員によってもかなり差があり、私自身は論文指導系の受け持ちが多く、今すぐにでも講義系の授業を始めなければならないわけではない、という事情もあります。じっさい、勤務先でもすでにオンライン授業を始めている科目・教員もいます。

それでも正直、5月頭から再開がどれほど実現可能か心もとないところで、5月以降も再開されないとなれば、ほとんどの教員が「新しい学習領域をオンライン授業で行う」ことが求められます。そのようなリアリティの中、各教員が急激に動画編集スキルをアップさせています。口コミレベルの話だと、少し話題になったZoomにおけるセキュリティの問題は早くから指摘されており、使用には慎重になっています。周囲では、すでに教育現場では普及しているGoogle ClassroomやGoogle Meetを使っている例が多いです(いち企業が教育のインフラをほぼ一手に引き受けることの是非はほとんど議論されていません)。

これもよく聞く話ですが、「動画は最大でも15分!」という鉄則があります。人によってさまざまだと思いますが、こと授業という点においては、人(キャラクター)が前面に出るよりは、パワーポイントの画面が前面にあって、授業担当者はワイプ程度の方が集中できるとの噂。先ほども言ったように、ラジオ好きで放送大学の講義も好んで聴くような筆者は、手元に教科書・ノート・資料を置かせて、音声のみの授業を考えています。ICレコーダーで録音して、Classroomに音声ファイルをアップする感じ。気が散るのを防ぐために、むしろ画面を排するという方針もしばしば聞きます。

本当は、ワークシートかレジュメをプリントアウトできればいいのですが、プリンタがない家は多く、ここにはハードルがあります。在宅勤務を良いことにチャイム音をチョップしてオープニングのテーマなど作っている体たらくです。

しかし、教員という存在がこのように属人的でキャラ的になっていくことが、学校制度にとって良いことかどうかはなんとも言えません。また、おもに文系科目が〝語り〟による物語化を追求できる一方、同じようにはできない教科があるとも聞きます。また、実技教科の困難もあるでしょう(「合唱」と「吹奏」を禁じられた音楽の困難さよ!)。このあたりも、近接性を前提にした学校空間が問い直されているようです。

現場の教師に真っ先に突きつけられる「環境格差」の問題

さて、オンライン授業を含めた授業のICT化については、文科省が唱える「21世紀型スキル」のひとつであり、以前から進められていたものです。文科省的には、これからの「働くためのツール」という文脈でICT活用を強調しており、筆者自身は主にイデオロギー的な観点から冷ややかに見ていたところもあります。しかし一方で、このような自宅学習を余儀なくされる状況でICTの力を発揮するということについては事実で、この点については、恥ずかしながら思いいたっていませんでした。

今回の一件で、ICT保守派も少なからず態度変更がなされるかもしれません。授業担当者はワイプ画面の方がいいらしいとか、YouTuber的なテロップは逆効果とか、細かい方法論上の議論は飛び交っていますが、基本的には一部の先駆的な例を除いて試行錯誤の段階と言えるでしょう。

もっとも、オンライン授業が喧伝され「Zoomか? Google Classroomか?」という世間的な盛り上がりがあった時期、現場ではまた違った生々しさに直面していました。それは、各家庭におけるネット環境の違いです。現場では誰もが話題にしていた問題ですが、一般的にはそれほど話題に上っていなかったので、少し不思議でした。もしかしたら、このへんは見えにくい問題なのかもしれません。

実際、それまで問われることのなかった各家庭におけるネット環境の微細な違いが、オンライン授業の急激な普及によって問われるようになりました。それは、単純なネット環境の有無だけではなく、どのような種類の端末がいくつあるか、接続がどのくらい安定しているか、プリンタがあるか、という微細な違いも含めてです。

あるいは、兄弟姉妹がいて、しかも学習塾に通っていたりすると、あらゆるところからオンラインが要求されます。となると、それを受けられない家庭においては、その分だけやはり学習の機会が物理的に減ってしまう。授業を行う側からすると、各家庭のネット環境の違いを踏まえないと教育の平等性に抵触する可能性があります。課題は毎日出すべきなのか。プリントアウトを見込んだワークシートは使用可能なのか。意外と考えるべきことは多いです。以上のことは、もしかしたら、ひとり暮らしが多い大学の方がより露骨に起こることかもしれません。

これまでのICT活用をめぐる議論は、学校で行うことが前提となっており、だからこそ、ネット環境をめぐる議論と言えば、タブレットの支給やWi-Fiの完備といったことが中心でした。そこでは、各家庭のネット環境はそれほど問題になりません。新型コロナウイルスが教育領域に突きつけたのは、なにより家庭の学習環境の可視化でした。ここで言う「学習環境」とは、ネット環境にとどまりません。勉強がうまくいっているか/いないかという点に、保護者がどれだけ関心を持っているか。学習に対してうまく動機づけができるか。自宅で勉強をする空間はあるのか。そもそも、日中一緒にいる家族はいるのか。そのような経済状況とも紐づけられた各家庭の文化資本の格差が、子どもの学力格差に直結してしまうのではないか、という危惧が強くあるのはたしかです。

そのように考えると、従来、学校という場所がいかに身体的な近接性を前提にされているのか、ということをあらためて感じます。日々の授業は、声かけや目視(教育実習で教わる定番のヤツ)など授業内外での身体的なコミュニケーションの上で成立していました。オンラインでどのような内容を教えるかということも大きな問題ですが、それ以上に、この身体的な近接性が消去されることのほうが、個人的には考えるべきことに思えます。

加えて言うと、さきほどICT活用は文科省の求める「21世紀型スキル」だと述べましたが、この「21世紀型スキル」(何度聞いてもうさんくさい言葉)の中には、「コラボレーションとコミュニケーション」も含まれています。つまり、他人との近接的なコミュニケーションを通じた創発性が期待しているわけです。だからこそ、教員による講義型の授業ではなくグループ学習やプレゼン型の授業が好まれる。しかし、自宅学習を基本にした現在のオンライン授業で起こっているのは、むしろ、教員による一斉講義の復権です。この逆説が興味深いと言えば興味深い。もっともこれは過渡期的な段階で、もっとICT活用が進めばさらなる可能性があるのかもしれませんが、当分は家庭でのネット環境格差の問題が横たわっているでしょう。

いろいろ書きましたが、一方で無責任に言うと、学校空間から解放された真の学問的態度を養っている可能性を夢想したりもします。教室から解放されたことによって同じ勉強から違う意味を受け取っている人もいるでしょう。あるいは、これまで学校があるから観ることができなかった、もしかしたら授業よりよほど彼/彼女の人生を豊かにする映画やマンガを観まくっている人もいるでしょう。学校的な価値観を相対化して批判的な思考を育んでいる人もいるでしょう。それぞれ、広い意味での学問的態度を培ってくれたらと思いますが、やはり、最後の最後、文化資本を含めた家庭環境をめぐる格差のことが気になります。